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五十嵐 久夫 広味坊@千歳烏山

―五十嵐さんが飲食業界に入られたきっかけからお伺いできますか?
 実は私、学校の先生になりたかったんです。でも、大学入学を目指して一浪していたときに、私の部屋から出火して実家が全焼しました。幸い家族は皆無事でしたし、保険に入っていたので家は建て直せましたが、「火事の責任を取って家を出て自立しろ」といわれ、大学どころではなくなりました。私は心の整理がつかないまま、兄が勤めていたトンカツ屋さんでアルバイトを始めました。

―では、偶然この業界に入られたのですか?
 そうですね。深く考えるゆとりはありませんでした。自分で食べていかなくてはなりませんでしたから。半年くらいして、兄の知り合いだった三笠会館の針生さんに有楽町の洋食屋さんを紹介していただき、半年くらい働きました。その後赤坂プリンスホテルや東郷記念館などの結婚式場のヘルプなどホテル関係でのアルバイトを2~3年経験しました。

―では、転機は?
私が21,2歳の頃、料理好きな2番目の姉から、旦那さんと東村山市の多摩湖に大衆食堂を出すから手伝ってと誘われました。カレーやハンバーグ、ラーメンなどを出す普通の食堂です。結構繁盛していたのですが、2年ほどで義兄がこの仕事は向いてないと言いだし、姉夫婦は手を引きました。私が引き継ぎ、私の連れ合いの姉弟や、お客さんとして来ていた若い人を口説いてスタッフになってもらったりして続けました。

―お姉さんたちから引き継いで独立されたわけですね。
 そうですね。やれるだけやってみようと思いました。たしかに飲食業は想像していたより大変でしたし、奥も深い。ここに自分の心の置きどころ、人生の柱をみつけるのに時間もかかったし葛藤もありましたが、お客さんに「おいしかったよ」といってもらえたときには大きな喜びもありました。常連さんから「東村山市栄町の久米川駅前にあるビルの2階に空き店舗があるよ」と声をかけていただきましたので中国料理店「龍鵬」を出しました。

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―こちらはなぜ中国料理になったのですか?
 多摩湖の大衆食堂「京楽」の売り上げは中華系が7割くらいでしたから。ただ、私は本格的な中国料理は学んでいませんので津久井さんという中国料理のプロをチーフに迎えました。私をはじめ、調理スタッフ7~8人全員がチーフからいろいろ学びました。お客さんに「おいしかったよ」と言ってもらえる機会がふえてやりがいを感じて、さらに本格的に中国料理を勉強しようと思いました。

―本格的な勉強というのはどのようにされたのですか?
 うちのチーフに学ぶのはもちろん、もっとおいしいものを提供したいと評判のいい店の食べ歩きをしました。日本全国の有名店はほとんど行ったと思います。当時日本では中華はフレンチなどと比べて遅れていて日本人のコックさんはそんなにいませんでしたので、将来性を見込んで資料をたくさん集めて読みまくりました。

―広味坊はどのようないきさつで開店なさったんですか?
 東村山の店は2軒とも女房の姉弟が手伝ってくれていましたし、「龍鵬」を出す時の借金の担保は女房の実家の土地でした。それで義母から「義弟に店をまかせてほしい」と言われて任せたのですが・・。結局ダメになりました。私は姉を頼って木更津に行き、10坪ほどの和風ラーメン店「祇園」を開きました。その後お金を借りるあてができたので本格的な中国料理の店を東京でやろうと思いました。

―この場所はどのようにしてみつけたのですか?
 もう失敗は許されませんから、じっくり調べました。東京の山の手に開きたいと思い、路線は東横線沿線、京王線沿線、小田急線沿線、田園都市線沿線と決めました。一駅ずつ降りて街の様子を観て探しました。木更津でラーメン屋をやりながらだったので決めるまで半年かかりました。

―千歳烏山駅に決めた理由は?
 探した中では京王線の千歳烏山駅と小田急線の祖師谷大蔵駅が商店街の人通りや自転車が多かったんです。区別の世帯数も多く人口密度も高いのに駅から少し外れれば賃貸料は安い。そのとき決めた物件は現在厨房として使っている隣の建物なんですが、駅から歩いて約7分でした。広さは7,5坪、厨房とカウンターだけで始めました。7分とはいえ、ここまでお客さんを引っ張るのは正直大変なことなので、お金があればもっと駅に近いほうがいいとは思いましたけど。

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―資金は?借りられるあてができたとおっしゃってましたが?
 はい。私の実家があった自由が丘に私の持分の土地がありましたので、残りは借り入れです。ただ、倒産した東村山の店の借り入れは代表だった私の名義でした。店をつぶしたのは義弟でしたが、公的な機関では借りることができませんので親戚が貸してくれました。

―この場所にお客さんに足を運んでもらうためにどのような工夫をされたのですか?
 ただおいしいだけでは人は呼べないと思います。うちでしか食べられなければ多少遠くても足を運んでくださいます。それでよそでは食べられない物を作ろうと思いました。それから麺作りにこだわりました。機械で打った麺は、ローラーを通すから組織が破壊され腰がなくなるんですよ。だから手打ち麺。竹を使った手打ち麺にこだわり、さらに店の前面をガラス張りにしてその様子をお客さんに見ていただけるようにしました。

―新しいことを学んですぐ実行していくんですね。
 食べていかなければなりませんでした。自分の子どもが4人、義弟の子ども2人、6人いました。なんとしても子どもを育てなければいけないから本気にならなきゃいけない。がんばって結果を出さなければいけない環境なんですよ。でも、初めの2年くらいは赤字でした。3年目くらいから口コミで徐々にお客さんが増えてきましたけれど、初めはちょっと大変でした。

―お店は2軒を隣同士で借りていらっしゃるんですね。現在客席になっている方の店は?
 これはたまたま隣が空いたということで平成元年頃借りました。ちょうど長男が独立したい、といいましたので最初の店を長男に任せ、こちらはこちらで厨房を作り、独立した店としてオープンさせました。長男は嫁さんと2人で店を切り盛りしていたんですが、1年くらいした頃でしょうか、「もうできない」と閉めてしまいました。仕事を甘くみていたのでしょう。こちらを全面客席にしてあちらを厨房にしたのはごく最近です。

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―スタッフの募集方法や教育方法を教えてください。
 スタッフは女房や身内、息子や娘以外には友人や知り合いなどから紹介してもらっています。教育というかモットーは心を育てること。心を育てないとおいしい料理は作れない。すべての食材、肉、魚、野菜などは誰かが手間と時間をかけて作りここに届いたもの。関わった人のご苦労をふまえて向き合ってほしいと思っています。

―現在お店は何店舗あるんですか?
 千歳烏山店と祖師谷大蔵店、あとは三越本店に入っています。他に環八沿いに40坪ほどの加工場があります。その加工場は北京ダックを乾かすのに使っています。北京ダックを乾かすには大きな冷蔵庫が2個いるんですよ。

―3年後、5年後の夢というか抱負を教えてください。
 飲食業界の生産性の悪さを改善したいですね。職場環境を整えて、この業種にくる若い人たちが喜んで働けるようにしていきたいですよね。この業界は拘束時間も長いし、作業もきつい。それを変えていかないと若い人たちは長続きしませんから。まだ発表できませんが、1年後ぐらいに実現できる具体的な構想があります。1割から1割5分利益率が上がるようにしたいですね。拘束時間は減って給料は上がるようにしています。

―飲食業を目指す若い人たちへアドバイスをお願いします。
 料理を志すということは、人様の口の中に入ったものが身体に入って栄養となるわけです。白衣を着ているという意味は大きいのです。どれだけ食に対して思い入れがあるのかが大事なことです。おいしいものを伝えたい、という思いです。そして成功するためには努力と勉強を続けるしかありません。

―五十嵐さんの座右の銘をきかせていただけますか。
 「春の来ない冬はない」
楽しいこともつらいこともいろいろあるのが人生。私自身も現在、私の力だけでは解決できない問題を抱えています。でもこの言葉に出会い「いつか春がくる」と期待をもてるようになりました。心が少し明るくなったのです。

【五十嵐オーナーのこだわりのもの】

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 北京ダックですね。中国で1番感動したのは北京ダックだったんですよ。中国では北京ダックは免許制なんです。それぞれの味は秘伝で第三者には教えない。その北京ダックを食べたときに本当に感動しました。どうしてもこの味を、本場の味を日本人に食べさせたいと思いました。中国には研究のために毎年1~3回行っています。食べて感動した物、本物の味を日本人の口に合うようにアレンジしたりして提供することもあるのですが、その北京ダックだけはそのままでも日本人の口に合うと思いました。だから店を休んで1週間皆で見学にいきました。作業を一生懸命みてメモしてきました。ただ、なかなか同じようにつくれない。中国では部門ごとにベテランが手作業で作っています。焼くのが1番難しいんですが、大きな釜で薪を使って焼いているんです。しかも勘で動かしながら。それはちょっとマネできない。同じように作るためには何年もかかってしまう。なんとか機械で焼いても同じ味になるようにしたい、と研究に研究を重ね、何度も中国に通って焼き具合を確かめながら3年半かけてその機械を開発しました。いやがられましたけどね。だから自信をもった北京ダックを出せるようになるためには7~8年かかりました。今、北京ダックは、下処理を環八沿いの加工場で行い、店ごとに機械で焼いています。召し上がっていただいた方にはとても好評です。

【インタビューを終えて】
「中国では医者とコックだけが白衣を着ている。それだけ食の役割は大きい」と熱心に話してくださった五十嵐さん。大評判の中国料理店は、そのオーナーが人との出会いや、縁を大切にしながら精進を続けてこられたからこそ、築き上げることが出来た店でした。その味と信用はじっくりと培われたものでした。お話を伺う前は、成功を絵に描いたような人生かと思っていましたが、その裏側には様々な負の面もお持ちでした。それらをご自分の力ではねのけながら、波乱万丈の人生をおくってこられた五十嵐さんには、優しさと力強さと誠実さがにじみ出ていました。お世話になった方への恩義と若い人たちへの気配りを忘れないその姿勢は見習いたいと思います。